ツギクルバナー

ブロント語はブロント語、お前がブロントならブロント語が分かるブログ

恐らくブロント語でブログを開設したブロンティストは自分しか居ないでだろうな。居ても生きがってるそいつを俺がギガトンパンチで殴って殺すという理屈でおれの価値は今後もさらに高くて忙しい、お前らも早く強くなっておれを休ませてくれよ。

集中とは感情である


 コンサータの効果が低くなっている気がする。これを耐性と定義するなら正しく耐性と呼ぶ。

 何がダメなのかってことを考えてみると、まず眠い。

 7時に飲んだというのに覚醒感はねえ、眠い。今は午前11時。

 ただしわき見する力は変わらず減ったまま。逆に言えば今見てることから逃げにくい。

 わき見とは散ること。

 YouTubeで同じ課題に関して見ているとそれをずっと見ていたくなって。

 例えば小説を書こうと思ってもずっと見てしまうような。

 良くも悪くも、時間の流れは変わらない。

 かといって、基礎ステータスは……うーん?

 ゲームやって見てもコンサータとあんま変わらんというか、慣れたというか。これがなくても『あるように装う』ことはできるんじゃねって。

 その証拠にコンサータが切れたあとの方が覚醒感あって副作用として言われている不眠が来ている。

 でも寝ようと目を閉じれたら眠れる。その意欲をガツガツにガッツ(どんな夢も〜)くえーるー。

 実際に食われている。

 飲もうが飲まいが、変わらんし変わってる。


 興奮、怒り、感情的は冷静とよく似てる。

 薬を飲むとそういう感覚がある。興奮してるんだろうな、怒ってるんだろうな、そういう感覚ではない。冷静な感覚。

 冷静に興奮するし、冷静に怒るし、冷静に感情的になる。

 その冷静は結果的に集中力って呼ばれるんだろう。

 エロ本に集中するから興奮するのであって、見るだけではただ見ただけになる。集中する意識がない。

 怒ることもそうだ。集中して声を大きく指を振りかぶる。その時に花瓶をなぎ倒すこともあるだろう、ちゃぶ台を返すこともあるだろう、だが本人に楯突いて大怪我の例は少ない。

 それはなぜかと言うと、本人を傷つけて大怪我させない程度には怒ることに集中しているからである。だから怒るとDVと殺人は違う。

 DVは相手を怪我させることに集中してるし、殺人も相手を仕留めることに集中している。

 ってのを嫌われる勇気って本から学んだのである。ちなみにあっちゃんの売り言葉を独自解釈しているバカである。

 結論的には感情という概念は言い訳に過ぎない。感情に強さなんてない。

 単なる己が動くアクセル、時には間逆のブレーキにもなる。そこに強弱は存在しない、アクセルとブレーキ、前と後、それだけ。

 それだけでしかないことを普通の人は気づかない。

 なぜなら今までをそれのせいで、悪いことしたと考えたいから。


 この話のミソになる部分は、感情のせいでと言い訳しているが、ちゃんと己で抑制できることを『さもできないように認識している』ことが我々人間の問題なのである。


 だから感情に強弱があると勘違いしている。本当はないのに。

 そこが大きな問題。

 例えば、あなたは日本のよくあるコンビニで『店長を出せ!』と怒鳴る。ようやくでてきた黒人の店長がショットガンを持っていても『おせえな!』って言えるだろうか?

 答えはおまかせするとして、話をコンサータに戻す。

 コンサータから手に入るのは『集中』である。その集中とは『冷静』であり、冷静とは『感情』だった。

 感情とは快楽などの興奮を示す、それらを補うのはドーパミン。補給する薬がコンサータ

 さっき話したように感情はアクセルとブレーキ。良い気分ならアクセル、悪い気分ならブレーキ。

 つまりコンサータとは集中する薬というよりも、感情的に良い気分にさせる薬なのだ(当たり前)

 はたから見たら集中する現象があるように見える。

 実際は良い感情良い気分で何かしてるだけ、それを見いだせない勉強に大半が嫌気をさして集中が途切れると定義される動きが出る。

 よく考えて欲しいのが、集中しようとして集中するわけではないってことである。

 かといって嫌なことに対して行動するのは『将来の為』とか『終わったらご褒美』とか未来に関するアクセル感情で動いてる。

 その動いている時に集中という言葉を唱えてるわけじゃない。集中とは現象に名前がつけられてるだけで、感情が結果的に行動を促す。

 ゲームに集中できるのは楽しい嬉しい美しい清々しいなどのアクセル感情が人間を動かしているからこそ。

 逆に楽しくない、嬉しくない、不愉快などのブレーキ感情が行動を止めるのでそれを含むゲームをクソゲーと呼ぶ。だからゲームには飽きがある、その飽きの本質は嬉しくなくなった、その嬉しさに耐性が着いた。換言されて楽しくないなった。

 勉強の中でも歴史は楽しむ人が居るし、英語も楽しくしてる人がいる、数学も実は楽しんでる人がいる。だから続く人が天才として名を重ねる。

 個人的にADHDの人は自分含めて感情の起伏が浅いと考える。

 抑揚はないし、他人の喜びを喜べるほどの喜びもない。手に入る感情が浅い。

 だから集中できない、ノイズが走る。それはどうしてか? 感情的じゃないからだ。

 何も思わないからこそ何もできないし、普通のラインの感情、所謂怒りや興奮、それなりの感情バランスに満ちていないから音を拾う。

 基本的に怒っている時や興奮している時は他の音が聞こえない。

 それは普通の状態でもある程度遮断する作用として効果を出すのだがADHDの人はその状態にも満ちていないので音が聞こえる。

 だからADHDの本質は感情的じゃないのが全て。

 逆に言えば感情を抱けた少ないものには集中したい、それが過集中と呼ばれる固執現象に変化するのではないか?


 しかし、感情的ではないというのは全てがマイナスに作用するバッドステータスとは限らない時がある。

 それはブレーキ感情の存在。

 これがあると手が止まる。歩みも止まる。

 歩みが止まるというのは、進歩しないということ。

 例えば包茎の人は『どうせ彼女作れない』って諦める。なぜなら包茎に対して劣等感というマイナス感情(ブレーキ)を感じて行動に制限をかける。

 真っ当な判断ですねと納得。


 嘘です。よく考えるとおかしいって分かりましたか?

 包茎自体は彼女を作ることに作用しない。作ってから作用する問題、作った後に直せばいい。その本質に気づけず劣等感一つで動けなくなる。

 嫌われる勇気は『トラウマなんてない』と言った通り。

 そこでADHDの感情起伏の弱さがバッドステータスにならない理由として出てくる。

 実行しようということに対してブレーキ感情が働かない。

 結果的に『思い切りのある凄くアクティブな人』として映る。これが異端にも尊敬にも映る。

 どうしよう、エアコンの温度上げたいけどなんか言われたら?(不安感)とかはない。

 温度が低いので上げましょう。それだけ。その不安感がないので期限が守れなかったりするのだが。

 よく言えば誰にも止められない実現の天才。悪くいえば?


 悪く言うことすらおこがましいほど誇らしいステータスだ。


 というのは冗談で体感したことの無い感情が彼らには多い。

 それが操れずに抑制できずにわけも分からず、行動となって癇癪とか大泣きとか、一夜の大爆発に繋がる。

 悪くいうとすれば、感情的すぎる。


 ふう、感情的に書いたら長くなっちゃった。